2011年12月14日
先般、この「お知らせ」コーナーで、当宮御本殿下に敷かれている亀腹石(社殿の土台石のこと)の採石場に不動明王像が祀られているとの報告をいたしました。9月8日付けで掲載した「元禄の大修理の採石場に不動明王を確認」という記事です。本情報は、日光の歴史を研究している田邉博彬氏より寄せられたものでしたが、田邉氏はその後調査を続け、この程続報を届けて下さいましたので、お知らせいたします。
田邉氏によれば、不動明王の背面に刻まれた文字は「元禄三年四月十七日□□久三郎建立」と読めるとのこと。そこで、この久三郎について調べていくと、『鈴木長頼日録』という史料に「石匠久三郎」の名が見えることが分かったそうです。
田邉氏は『鈴木長頼日録』や『伊達治家記録』等に依拠して、不動明王建立の背景について、次のように論じています。
「天和3年(1683)の大地震で、東照宮はじめ日光山内全域が大きな被害を受けた。その後、一応の修復はしたものの、不完全であったため、貞享5年(1688)に幕府の大工頭鈴木長頼等が日光に赴き、破損個所の検分を行った。これによって、大修繕を行う方針が定められ、元禄元年(1688)以降の大修理が始められた。
この時の修理では、本殿下の亀腹石の状態が悪化していたため、社殿を解体して石を敷き直すこととし、元禄2年正月、石工頭の久三郎が新たな亀腹石を切り出す予定地の長畑山に赴いた。そして6月に長畑山で石割が始められた。9月より切り出した石の運搬を開始し、同月28日に運搬終了。30日には地鎮祭。10月11日に石の据え付けが始まり、11月15日に完了した。
こうした経緯を見ていくと、不動明王像の背面に刻まれた「久三郎」とは石工頭の久三郎のことと見られ、彼が元禄の修理に携わった証として不動明王像を建立し、その背面に家康公の命日である4月17日の日付を刻んだものと考えられる。
長畑から例幣使街道に入り、明神から室瀬にさしかかると急な上り坂があり、この坂を「十石坂」と呼んでいるが、その名の由来は、上記の長畑石を運ぶ際にこの坂で難渋し、坂越えに要した人夫の食糧米が10石に及んだため、と地元では伝えられている。」
以上が田邉氏から寄せられた不動明王像についての続報です。氏は近々日光の歴史を通史的にまとめた著書を発行される予定ですが、長畑から切り出した亀腹石と不動明王像については、その本に詳しくお書きになるそうです。(Y.Y)
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